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人気住宅地の変遷。田園調布から武蔵小杉、湾岸へ!?

2019年07月04日

中川 寛子

人気住宅地の変遷。田園調布から武蔵小杉、湾岸へ!?

住環境から利便性優先へ

人気住宅地の変遷。田園調布から武蔵小杉、湾岸へ!?

1980年に漫才コンビ星セント・ルイスの「田園調布に家が建つ」というネタが一世を風靡したことから、全国的に知られるようになった住宅地・田園調布。ドイツ風の駅舎がシンボルです

首都圏最初の分譲地は世田谷区の桜新町だった

日本で土地を所有できるようになったのは明治時代になってからです。といっても明治時代はごく限られたお金持ちだけが土地を所有しており、それを賃貸することはありましたが、一般の人たちに向けて分譲するという動きは無かったようです。今もお屋敷街として存在するまちのうちで、歴史的に一番古いのは文京区にある西片ですが、ここは当初、福山藩阿部家が賃貸経営をしていた場所。それが戦後以降に分譲されたものです。


当初から分譲地として世に出たという意味で、首都圏で最初の分譲地は大正2年に分譲が始まった、サザエさん通りで知られる世田谷区の桜新町です。ところが、面白いことに売り出し当初の広告には「東京の軽井沢」と書かれており、別荘地として意識されていたのだとか。渋谷から東急田園都市線で4駅目、今の感覚では都心に近い場所ですが、職住近接が基本で通勤という概念が無かった当時は玉川電気鉄道(昭和になってから東急に合併)は開通していたものの渋谷まで20分以上かかる場所は遠いと思われていたのです。


かつての分譲地は現在の世田谷区桜新町一丁目から深沢八丁目、七丁目辺り。開発当初に桜が多く植えられたことが地名になったそうで、今も大きな区画に桜が残されている地域があります

大正~昭和初期のお屋敷街は不便なのが当然だった

その後、大正時代後半になって一般の住宅地が続々と誕生することになります。代表的なものが今でも多くの人がお屋敷街として認識している大田区から世田谷区にかけて広がる田園調布です。2024年に1万円札の顔になる渋沢栄一が作った田園都市株式会社が大正12年から分譲した場所で、当初は多摩川台地区と言われていました。


この住宅地が注目を集めたのは分譲の翌年に起きた関東大震災。壊滅状態だった下町エリアに対し、首都圏の西側、武蔵野台地上の宅地は被害が非常に少なかったからです。そのため、首都圏では関東大震災以降、人口は西側へ移動し始めます。その代表が田園都市株式会社が分譲した田園調布だったわけです。


ところで、この当時の住宅街は住環境を最優先しました。それはそれまでの住環境がひどかったからです。身分に従って住む場所が定められていた江戸時代、庶民は湿気の多い低地などの小さな家に高密度に暮らしていましたし、明治時代もさほど状況は変わらず。都心部に工場があったことから、そこに大気汚染が加わり、疫病が流行ることもあったそうです。そこで家を買って住むなら空気のきれいな静かな高台と多くの人は思ったのです。実際、大正から戦前に分譲されたのは田園調布はもちろん、洗足、大泉学園、大岡山、国立、神泉、成城学園、尾山台、久が原など高台が中心です。


戦前に分譲された住宅地ではきれいな並木があるところも多数。いちょうやけやき、桜などまちによって樹種は異なりますが、景観を重視して作られたことが分かります


その一方で利便性はあまり重視されていません。田園調布を例にとると駅を挟んで階段を上がった先の高台は住宅地になっており、駅前のごく一部を除いて店舗はありません。自動販売機すらないほどです。商店街は駅を挟んで下り坂沿いに作られており、わざと離して立地させたことが分かります。今の感覚でいえば、ちょっとした買い物にも駅に来る必要があり、不便と思うかもしれません。


田園調布駅。左側に現在の駅があり、中央にある駅舎から奥が住宅街です。そこに階段があることから分かるように商店街は低い場所に、住宅街は高台に作られていました


しかし、住宅ローンのないこの時代に家を買えた人達は今の感覚からするとかなりのお金持ち。田園調布や洗足などの昔の住宅の間取り図を見ると、必ずといってよいほどお手伝いさんのための部屋があることを考えると、商業施設が近くになくてもそれほど問題はなかったと思われます。また、当時はお店の人が注文を取りに来てくれ、配達もしてくれるご用聞きという仕組みが一般的でもあり、それも利便性を重要視しなかった理由のひとつです。 

2000年以前、庶民はまちを選べなかった 

戦後になって徐々に住宅を買う仕組みが整い、会社を経営している人だけでなく、会社に勤めている人でも家を買えるようにはなってきますが、それでも買う、借りる人が自分でどこに買おう、借りようとまちを選べるようになったのはバブルが崩壊してからです。特にバブル期には住宅価格が高騰しており、買いたい場所ではなく、買える場所に買うしかなかったのです。


ところが都心回帰という言葉が生まれた2000年以降、土地や住宅の価格、賃料が下がり、まちを選ぶという感覚が生まれてきます。2000年に登場した地方分権化一括法の影響で以前はどこに住んでも受けられた同一のサービスに地域によって差が生まれたことも影響します。住む場所によって子どもの医療費助成の額や年限が違うとしたら、より助成される場所に住みたいと思う人が出るわけです。2011年の東日本大震災では住む場所によって被害の程度が違うことも認識されるようになりました。その意味では住むまちを選ぶ条件が出そろったのはつい最近のことというわけです。

利便性が人気のまちの大きな要素に 

そうした中、人気のまちの要件も変わってきています。大きく変わったのは利便性を求めるようになったということです。1997年に働く主婦の数が専業主婦を上回って以来、共働き世帯が増え、夫も妻も忙しくなっています。となれば買い物その他が便利に済ませられる立地が選ばれるのは当然でしょう。東日本大震災で子どもが心配で歩いて帰った経験をした人達はできるだけ、都心に近い場所に住みたいと思うようにもなりました。


東日本大震災以降、仕事場に近い場所に住みたいと思う人が増えました。また、IT系の企業の中にはオフィスに近い場所に住む人には家賃助成を出す会社なども増えており、都心居住は徐々に一般化しているようです(写真は渋谷)


その結果、以前は住む場所として挙げられることのなかった新宿や品川、池袋など山手線沿線のまちや再開発で便利になった武蔵小杉、川崎、二子玉川など足回りも買い物も便利なまちが人気を集めるようになっています。


利便性を求める動きとともに忘れてはならないのはインターネットの普及で、たとえば新宿といってもいろいろなまちがあることが知られてきたということ。かつては新宿=歌舞伎町とされ、繁華街のイメージだけで語られることがあったことを考えると隔世の感があります


鉄道の延伸や乗り入れ、高速化などで藤沢や大宮、浦和などかつては遠いと思われていたまちを選ぶ人も増えていますし、女性の社会進出が進み、飲む女性が増えた結果でしょう、飲み屋街が多い猥雑なイメージが邪魔をしていた北千住や赤羽などを良しと思う人も。再開発で住宅が多く供給される湾岸エリアの都心からの近さを評価する人も少なくありません。 

 

1980年代から開発が始まった、日本の湾岸開発の先駆「大川端リバーシティ21」。面白いことに今ではタワーマンションのメリットのひとつとして挙げられる眺望は売りとは思われていませんでした

つまり、住環境だけを基準としていた時代に比べると、選ばれる要因、人気の理由が多様化しているのです。では、その中で自分は何を選ぶか。人気だからと選ぶのではなく、自分の価値観で自分にマッチしたまちを選んでいただきたいものです。

 

元々は工場の多いまちだった武蔵小杉ですが、タワーマンションが多数建設され、大規模商業施設が揃って暮らしやすくなったことから今では子育て世代などにも選ばれるまちに。20年前には誰も想像していなかったことです


●文中で紹介したエリアで物件を探す


参考サイト 

最終更新日:2019年07月04日

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