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独り身の三十代男性は、失恋に憧れる|同棲ソー・ヤング

2017年10月22日

roomie

独り身の三十代男性は、失恋に憧れる|同棲ソー・ヤング

独り身の三十代男性は、失恋に憧れる|同棲ソー・ヤング

これは、32歳独身、同棲未経験、恋愛偏差値Fランの筆者が、「同棲」という名の幻について、夢想し、想像し、妄想していく連載である。
既に同棲時代が過ぎ去り、結婚やら子育てやらに勤しんでアッパークラス人生を送る天上人の皆々様は笑い飛ばしていただければいいし、ぼくと同じく同棲を夢見る読者諸賢は共感したり反発したりしていただければ、この上なく幸いである。

Vol.2「独り身の三十代男性は、失恋に憧れる」

失恋をしたことがあるだろうか。
「一度もないけどね」と流し目でサラリと断言即答できる御仁は、ジャ○ーズ事務所の面々だろうがクリスティアー○・ロナ○ドだろうがROOMIE編集長だろうが、なかなかいるはずもなく、かなりのUR(ウルトラレア。この場合、都市機構とは関係ない)だと思う。

ご多分に漏れず、ぼく自身も失恋に失恋を重ねて独り身の三十代男性と相成った。
その重ねっぷりたるや、いわば失恋のミルフィーユ。
ぜひとも美味しく食べていただきたいものである。
例えておいてアレなのだが、失恋と失恋の間に「恋愛成就」が挟まっていないことが多々あるため、正確にはミルフィーユと異なってしまう。
失恋という名の生地の間に「恋愛成就」のクリームが入らずに、生地で生地を挟んでしまっているという、なんとも物悲しいスイーツが「失恋のミルフィーユ」なのである。

ちなみに、ここでいう「恋愛成就」は失恋の反対の意味として使っているが、実は対義語がちゃんと存在していて、「得恋(とくれん)」というらしい。
恋を失う「失恋」に対して、恋を得る「得恋」、非常にわかりやすいし覚えやすいが、使っている人を見たことないのはぼくだけだろうか。
「得恋」。
なんだがちょっぴりオトクな、コスパのよさそうな、ついつい手を伸ばしちゃいたくなる字面と語感であるが、手を伸ばしたところで簡単には手に入らないのが「得恋」のニクいところである。
ニクくてモドカシくてハッキョ-しそうである。

余談を、それこそミルフィーユのように重ねてもくどくなってしまうので(うまいこと言った)、レトリックの沼に溺れる前に話を先に進めたい。

さてさて、改めて、失恋をしたことがあるだろうか。
そして、失恋をしたことがある全ての読者諸賢にさらに訊きたい。
また失恋をしたいだろうか。
ほとんどの方は「したくないけどね」と断言即答すると思われる。
わかる、すごくよくわかる。
失恋はつらいし、悲しいし、痛いし、しんどい。
「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対なんて言わないよ絶対」って歌いたくもなる。

ただ、ぼくはそういう「失恋マジ勘弁」というレッテル貼りに対して、疑問を投げかけたい。
そう、「失恋マジ勘弁」という風潮へ反逆の狼煙を上げることが、今回の本題である。
ここからが、ようやく本題であり佳境、物語のクライマックス、本日のハイライトである。
つまり、『タッチ』でいえば3年夏の須見工戦であり、『ラフ』でいえば大和圭介と中西弘樹のラストの100m自由形対決、『H2』でいえば最後の甲子園での千川高校対明和一高校、そして『虹色とうがらし』でいえば……。
いや、あだち充作品で例えてもピンとこない人にはからきしなので、やめておこう。
とにかく、今回の本題は「失恋のひそやかなる肯定」なのである。
ちなみに、ぼくのフェイバリットは『ラフ』である。



しばらく恋愛をしていない人、というのが、実は結構たくさんいる。
少なくとも、ぼくのまわりには結構いるし、インターネッツでもたくさん見かける、気がする。
そういった「しばらく恋愛をしていない人」たちは、「恋愛がしたいのに不覚にも縁がない」クラスタと「恋愛に消極的な結果として遠ざかっている」クラスタとに二分されるのだが、かく言うぼくも前者のクラスタに属している。
得恋はおろか片思いも片思われもなく、恋の予感も寂しさの行方も悲しみにさよならも訪れず、春夏秋冬のキラめくイベントたちを一人で涙も流さずに淡々と黙々と粛々とやり過ごして幾星霜、気がついたら友人が同棲を始めたり、結婚したり、子どもが生まれたり、かと思ったら離婚をしたりして、それらと比べるとなんだか完全に「ライフイベントが全く起こらない人生」を送っていた。
転職と引っ越し以外、何もない……。

そんなエンプティー・オブ・ライフな我が人生には、やはり決定的に「恋愛」が欠けている。
恋愛のある人生には、仕事以外にも出会い→交際→同棲→結婚→出産→子育て→……と日本アルプスのように脈々と連なるライフイベントの山脈があるが、恋人のいない三十代独身男性には、仕事→死の高尾山くらいしかないように思える。
「恋愛がしたいのに不覚にも縁がない」ので、恋愛を拒絶しているわけでも、否定しているわけでも、ましてや憎悪しているわけでもないのだ。
そこにぼくの外面的、あるいは内面的な問題が色濃く影を落としているのかどうかはともかく、どうしても恋愛ができないのである。

このように、もうにっちもさっちもどうにもブルドックに恋愛欠乏症なぼくのような人生だと、何が起こるのか。
実は「失恋に憧れる」のである。

「失恋に憧れる」、これは「恋愛に憧れる」とほぼ同義であるが、ちょっぴり似て非なる。
コカ・コーラとペプシコーラ、もしくは吉野家の牛丼と松屋の牛めし、あるいはカフェオレとカフェラテくらい似て非なる。
つまり、分かる人にしか分からない違いである。

神は細部に宿るのでディテールを述べていくと、「失恋に憧れる」は「恋愛に憧れる」にほぼ内包されるのだが、「恋愛に憧れる」から一部がはみ出ている。



「恋愛に憧れる」とき、出会いから交際、そして結婚などのハッピーエンドを夢想するのに対して、「失恋に憧れる」場合は出会いから交際が始まり、ジェットコースターロマンスの果てに、別れという終末へ至るまでの一連のプロセスにこそ思いを馳せるのだ。
顔のわりに小さな胸や少し鼻にかかるその声を思い出したいし、「風邪が伝染るといけないからキスはしないでおこう」って言われたいし、いつか街で偶然出会っても今以上に綺麗になってないでと思いたいのである。
「そういうOverな思い出、おれも欲しい!」と熱烈に激烈に痛烈に願うのである。

「恋愛がしたいのに不覚にも縁がない」ぼくたちの心は乾き……否、渇ききってしまっている。
そして、友人の恋バナからテレビや映画のフィクションのラブストーリー、インターネッツに転がる色恋沙汰まで、恋愛のアレやらコレやらソレやらを耳年増的に知りすぎてしまっている。
現実に生きるぼくらは、恋愛がなかなかどうしてうまくはいかないこと――出会いがあれば別れがあること――を、どうしようもなくリアリスティックに知りすぎてしまっているのだ。
さらに、恋愛至上主義的な、胸キュン原理主義的な昨今のマスの風潮にも些か疲れ気味でありつつも、完全無視などはできずに、横目でチラッチラッと見てしまうのだ。
つまり、別れがあることを知ってはいるし、始まりがあれば終わりがあるのはもちろんだけども、それはわかってるけど恋愛はしたいのだ。
わかっちゃいるけどやめられないのだ。

だからこそ、ちゃんと出会って、ちゃんと付き合って、ちゃんと生活して、ちゃんと別れたという「失恋」に憧れる。
失恋をした人をとても尊敬するし、とても立派だと思う。

そう、失恋をしたということは、恋愛をしたことの、恋愛ができることの証明なのである。
胸を焦がし、思いを募らせ、心を昂ぶらせた経験の裏返しである。
そういうのをいっぱい持ってる人生が、よくよく考えるとすごく羨ましい。
ぼくも欲しい、そういうの。

同棲ソー・ヤング
Vol.1 独り身の三十代男性とは、寒ブリである

illustrated by shun nakamura

最終更新日:2017年10月22日


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